そりゃイザって時は最大戦速だけどさ

真田幸村』山田竜也
真田幸村 伝説になった英雄の実像 (PHP新書)

判官びいき
ご存知の通り九郎判官義経の悲劇のヒーローぶりへの人気を指しての言葉です。でも歴史的に見たら日本最古は日本武尊ヤマトタケルノミコト)なんだから「日本武尊びいき」と言うべきではないですか?言いにくい。失礼
私自身では最近は『大和』を見ました。これも(人じゃないけど)判官びいきと言えば判官びいきですね。

さて、ここで戦国時代での悲劇のヒーローである真田幸村通称ユッキーの登場です。真田幸村と言えば戦国終盤の『大阪夏の陣』で「FIREEEEEEEEE!!」と叫びながら、徳川家康をあと一歩の所まで追い詰めた、また猿飛SASUKE霧隠才蔵を代表とする「真田十勇士」というミュータント集団を率いたという名将ぶりで悲劇のヒーローとして有名です。一部フィクション・誇張あり、特に「真田十勇士」は丸ごとフィクションです。

幼少の頃、真田幸村の伝記を読んで以来私も専ら真田幸村とロボのファンですから、好きなんですが。ちゃんと知っておこう、そして何を以って「日本一の兵」たらしめたのかを知りたくて読みました。(つわものってちゃんとIMEでも変換されるんだな)


じゃあまずは教科書的知識として真田幸村年表(抜粋)を
1570,生誕
1582,父昌幸、信長・北条・徳川を転々とする
1584,人質として上杉家へ
1585,神川合戦(幸村は参戦せず)
1586,人質として羽柴家へ、この年元服
1590,初陣。秀吉と共に北条征伐
1600,関が原。上田城攻防戦。しかし負けて配流
1614,大阪冬の陣真田丸大阪城に作りガンガンぶっ殺すが負ける
1615,大阪夏の陣茶臼山から家康本陣急襲するが果たせず討ち死に

ということで、一番油の乗った時期(30〜44)に配流されており、「日本一の兵」たらしめたのは大阪夏の陣・冬の陣なわけですな。大器晩成といえばそうですが、この配流期間がなければ武将としてもっと華々しい活躍が期待されていたところ、しかし悲劇のヒーローにはなれなかったかもというところで微妙なところです。

いずれにしろ、配流前から非常に高い評価を得ていたところと活躍が戦国終盤であるところなどは実に戦艦大和を思わせます。すっごいんだけど、時代はもう終わってるんだよ、みたいな。


さてさて、配流後であるとはいえ、徳川家康もビビって天ぷらを喉につまらせた(フィクション)その戦いぶりですが、孫子を引用しつつその要諦を明らかにすれば以下のところ

激水之疾、至於漂石者、勢也。鷙鳥之疾、至於毀折者、節也。故善戰者、其勢險、其節短、勢如張弩、節如發機。

水が激しく流れ、岩を流せるのは、勢いがあるからです。鷲が獲物を一撃で打ち砕けるのは、時節を得、瞬発力があるからです。それと同じように、戦いの上手い将軍は、勢いを溜め、時節を得て瞬発力を発揮します。例えれば、それは引き絞った弓の弾力が勢いで、放たれた矢が瞬発力です。
(http://renpei.vis.ne.jp/s/sonshi_mix/sonshi.html#5)

となります。
つまり、敵軍が迫ってきても微動にしません。囲碁とかやってます。しかし、いざ目前に来るや否や溜めていた気を一気呵成に放ち、そのまま敵軍に壊滅的なダメージを与えるところです。

これは父昌幸から受け継いだと思われる戦法で上田城攻防戦や大阪冬の陣での真田丸で最大限発揮をしています。昌幸・幸村親子が孫子を読んでいたかは定かではありませんが、前述の戦法によって戦いの勢を得て敵軍を駆逐する点は正しく孫子にもあるところです。

ということで、仕事上でもどんなピンチに陥っても冷静に状況を極め、イザという時一気呵成に動き片付けるということで、
「イザという時になるまでは遊んでいても良い」という、ダメ人間らしい教訓を得たところでオチとさせて頂きます。