『陋巷に有り』総括第2回

間が空きましたが、前回までで『陋巷に有り』の中国史における位置づけを説明しました。とはいえ、単なる歴史の1エピソードではなく、『三国志』や『水滸伝』などのイワユル『演義もの』の中における位置づけ、前後との関係性を解説し魅力を語ったつもりです。

さて、後編では孔子が作りだし、今でも中国(や朝鮮)の人々の考え方に深い影響を及ぼす『儒』(儒教)について触れたいと思います。儒教孔子が創ったものであるとされています。しかし、儒教の考え方、良く言われる仁義礼智忠信孝梯なんぞ(まあ若干の歴史的変遷はあったとは言え)は元々あったものです。
仁義礼智忠信孝梯の解説は七面倒くさいから省きます。但し、この作品で一番焦点をあてかつメインテーマともなっているのが『礼』です。この礼さえあれば他の七つなんぞいらんというシロモノ。
さて、この儒と礼についてですが、作品世界の中では以下のように定義されています。『儒』とは『呪』と同じ意味を持ち、いわゆる呪いの意です。言い方を変えれば魔法。儒の原理は天地神霊の力を借りて超自然を引き起こすというもの。ファンタジー小説に分類されるのもこの所以ではあるものの炎とか出したりしませんよ、そこのガンダルフに欲求不満を感じているアナタ。
天地神霊の力を借りれば超自然の力を行使できるのですが、この世界では天地神霊もそれぞれ個別の人格を持っており、そう簡単には力を貸してくれません。正しく、誠意を持って頼まないと力を貸してくれないのですね。そこで天地神霊と意志を通じ、自分の願望を伝え、それをかなえてくれるようにお願いする儀式、及び手続きを称して『礼』としています。儒(=術者)は礼に則って発声し・動くことによって超自然の力を行使することができるとあります。礼に長けている者は強力な術者でもあり、顔回孔子はそれにあたります。

魔法と言ってしまえば話は単純になってしまうものの、この礼の仕組みについてかなり詳細に記述されており、リアリティのある術が表現されているのもこの『陋巷に有り』のコンピタンスです。発声法、言葉はもちろんの事、歩法なども表現されています。要するに凝っていて世界観がしっかり構築されているから好きなんです。
作品中盤で、少女を救うため顔回は冥府へ旅立ちますが、この冥府のシーンはこの作品の中でも最大に儒の力が発揮されているシーンです。祝融とかついてくるし。