『書くということ』石田九楊 文春新書

みんなこの人に謝れ

「書く」ということ (文春新書)

<本編>
ということで、この本に考えさせられる事、気づきはあったのですがそれ以上にこの本は凄かったです。手書き文字賛美のあまり話し言葉、印刷文字、あげくには西欧の文化を悉く貶めています。読んでて電車の中だというのに笑ってしまいました。隣のカップルが変な顔してました。悲しくなりました。
手書き文字とワープロで作成した文字の違いについて触れている序盤では、導入のような事を思っていたため、少なからず同意し、得るところはあったのですがそれ以外がスゴい。手書き賛美の余り、ワープロ(文書作成機という単語にこのルビをあてているという感覚の時点でどうかと)に対して、「いかがわしい暗部を持っている」と言い切りました。序盤で。おまけに表現の場からパソコンとワープロを取り上げろ、と言い切りました。
無茶苦茶言ってるなぁと思うのですが、

作品をつくるということは、集中し、持続し、その極点で白熱することだ。この白熱を通して、過去を突き破る現在が本の一瞬姿をあらわす。
(略)
さらに、この書字という行為と思考を微視点に捉えるならば、筆記具の先端が紙(対象)に接触し、摩擦し、離脱する力のやりとりの場に、筆記される客体(対象)を生み、その客体を生むことによって、書く主体(作者)を生み、かつその力のやりとりの渦中にあってじゃ、主体と客体が入れ替わるという劇が生じている。
その力のやりとりの劇は、作者には、対象との関係に生じる筆触として受感され、またその対象には、その筆触の具象であるところの筆跡が残される。これを筆蝕(注:ちょっと字が違います)と呼ぶ。

この部分、書くことによって何かを作り出すということをここまで注視して表現しています。てなことを、書いている間にもカナ漢字変換によって私の思考は中断し、1字1字に対する集中が分散しているのがアリアリ

で、第1部の結論として
1.書字は文明・文化・歴史形成の原動力であり、これを妨げるワープロ、パソコンは事務あるいは清書程度にしか使うなと。
2.日本・中国・朝鮮ともに可能な限り書字法を縦書き、印刷を縦組みにする

1については動機は納得は行くんだけど・・・
とは言え、長年コンピューターによって創造する仕事(=プログラミング)をやってきて、創造の思考過程はやっぱり違うのかなあと思います。書字に比べて劣っていると本に同意するつもりはないのですが。
特に、プログラミングなんてもんはその集大成で、コンピューターにあわせた思考をし、その連続性−いや連続というよりは網目(ネットワーク)−から世界を創造するってことだから、書字による創造行為がいかに尊いかを主張したところで、このプログラミングの創造思考はまた別次元なんだけど。

この本の賛美する書字については一目置いたとしても、実際私自身は書字以外の様々な表現・創造形態を併用し、しかもそれら全てを否定・捨てることなく使いつづけなければならないのがつらいところですわ。

最後に、この本のとんがった物言いを引用しておきます。
この部分は単に面白がるために編集をしています。本には文脈があるんだからこの通りに解釈しないでね。

印刷漢字コードをめぐっての学者や文学者の議論は(中略)チャット(おしゃべり)に過ぎない。
書くことがなくなれば、(中略)場当たり、ごまかしの野放図な言葉が跋扈する。それが日夜繰り広げられているのが電子便(Eメール)であり、国際通信網(インターネット)である。しかも、それが無署名相当とものなれば、どれほど責任を欠いた未成熟な意識が文(かきことば)のような面立で亡霊のように飛び交っているかは創造可能である
(西欧での書字の文化が未開であることに触れて)西欧へ持ち込んだ場合の無反応は、これとは異なり、文字の書きぶりに美があるとはとても信じられないという書の美への不感症によるものであり、
マラルメアポリネールの独特のレイアウトの詩集・文章を評して)
日本の我々にとっては(中略)気恥ずかしいほどの貧弱な表現である。
西欧における言語論は、文字を言語の中に正当に位置づける契機を欠いたまま、もっぱら声言語論に終始するという致命的な偏向と欠陥から逃れられないでいる。
マルクスに触れ)マルクスの思想が率直に受け入れられ、現在もいくぶんか機能しているのは中国と北朝鮮ベトナムそしてキューバである。

</本編>