『書くということ』石田九楊 文春新書

みんなこの人に謝れ

「書く」ということ (文春新書)

<導入>
子供の頃、テーブルトークRPGにハマっていた事はカミングアウトしました。そして当時は、テーブルトークRPGのプレイ過程(つまりログ)を「リプレイ」という形式でまとめるのが流行っていました。過程だけではなく、裏設定や挿絵を補完されていて、読み物として面白いものになっていました。実際『ソードワールドRPGリプレイ』なども出版されていました。
で、私たちもこのリプレイを作成していました。(もちろん恥ずかしいので昔のリプレイは見つけ次第片っ端から永久封印してます。例え彼女でも読ませるつもりはありません。ごめんね。誰に?)

作り方としては、大体1時間〜2時間(ひどい時は4時間とか)のプレイ過程をテープに録音し、後からそれを聞きながらノートに過程を手書きで書き、情報(状況説明など)を補完する。言葉にすれば簡単ですが、今やったらほぼムリですね。1時間テープを聞きつづけて、それを取捨選択しながらノートに書いていくなんてムリ。


で、時代は進んで今では手書きではなくテキスト文書として書くことができますし、録音もテープではなくボイスレコーダーも使えるし、しまいには録音した音声を解析して自動的にテキスト文書を生成する事も可能です。便利になったもので、その気になればリプレイなんて何とか作成することができます。

しかし、ノートに書いた手書きの文字と印刷された文字を比べるとどうも違うんですね。文字を情報を伝えるものとして捉えた場合、一応その機能は果たしています。しかし、テーブルトークRPGをしている最中のあの独特の雰囲気は手書きの方が遥かに表現できている。導入部では比較的綺麗に文字を書いているため落ち着いた雰囲気があるし、盛り上がるにつれて「文字が踊り」始め、最高潮になると文字は情報を伝えるという機能をどんどん失い、雰囲気を伝える記号となってしまっていました。もうノートに書かれた横線とか関係なし。リプレイを作成する過程でテープを聞きながら盛り上がり、それが手書きの文書にモロ影響していたんですね。

手書きの文字はただ情報を伝えるだけではない。その情報の生成過程や書き手の思考・世界を表現するんだなぁ。ということをこの本を読んで考えさせられました。

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