新富国論5

私が通った某千葉県立の高校は「自由」を特徴とする校風でした。
今はどうなっているかは知りません(一部には偏差値が激しく低下し不良化したとも聞いていますが)が、私が属していた当時は文化祭や体育祭のイベント、そして校則に至るまで生徒から提案され、それを評議会という場で吟味して可決/否決していました。この評議会という場には全学年各クラスから2名が評議員として選ばれて出席します。つまりプチ国会ですな。
もちろんこの場には教師の監視がありましたがむしろ教師の介入を積極的に嫌い、あくまでも自らを律することで学校生活を運営していました。

自由を明らかに履き違えて電車の割り込みで乗り込もうとする尻の穴オヤジ共(「他人に迷惑かからないからいいだろ!」と言いますが)がいますが、自由とその条件について気がついたら学んでいた。何をもって自由とすべきか、自由というのは制約があるからこそ自由であるという点を学び、一方で結社の自由を行使しつつ自分の学生生活を豊かにするために提案することを気がついたら覚えていたらしいです。もちろん稚拙ではありましたがね。
そんななので真面目なサークルでも心の底からふつふつと湧きあがる衝動を抑えきれずにサークル活動をよくするための提案など出してたりしてたなぁ・・・(遠い目。どんくらい遠いかと言うとイスカンダルまで)


豊かさに戻りますが、私にとって至高の豊かさとはひたすら「選択可能」だと考えています。上記のような背景を持っているので。人間としてあらゆる場面であらゆる行動を選ぶことができる。
しかし、そのためには(逆説的に)選べない行動を自ら取り込めることが必須と考えています。でもってそのような制約は結局人と人との間によって産まれ得る、決して自分一人の世界から産まれることはないと考えます。そりゃ世界に自分ひとりだったら何してもいいでしょう。そりゃ世界の中心で愛を叫んだっていいと思います。自分一人しかいないから無駄だと思うけど。
ただ、これは中途半端に自由を叫ぶケツの青い学生にわかって欲しいのですが、この国この時代に産まれた以上、人との関わりなしには生きられない。それが故にその中で如何にして自由を獲得し、豊かな社会で豊かな生活を送るかを考えて日々生きて欲しいと思いますし、私も日々生きることにします。